城壁に囲まれた松潘(ソンパン)、多民族が行き交う交易の町
九寨溝からバスで岷江沿いを120kmほど南下して松潘(ソンパン)という町に着いた。日本語読みではショウハン、チベット族にはスンチュと呼ばれる歴史の古い町だ。バスターミナルで話しかけてきた客引きの女性に着いていって、明徳旅馆という2階と3階に一部屋ずつの宿に90元(1,400円)でチェックインした。宿の女性は英語が話せず言葉が通じなかったが、「寒いから」と、温かいお茶を2階の部屋まで持ってきてくれる優しい人だった。「謝謝(シエシエ)」と中国を旅しながら何度も言っている。
チベット高原が隆起した際に形成された岷山山脈内部の標高2,700m。夏でも10℃以下まで冷え込み、日中も20℃までしか気温が上がらない。8月なのに朝の松潘は寒かった。宿の前の通りは朝から晩まで家畜を連れて歩く行商や、ヤクを積んだトラックなどが行き交う。
ヤクのトラックがここに来る理由は、あとで町はずれまで歩いて分かったのだが、ヤクの屠畜場があるからだった。ヤクは2,000年以上前から家畜化された毛の長い牛で、荷役用、毛皮用、乳用、食肉用として、松潘のある四川の山や、チベット、青海省、雲南省あたりで利用されている。1,000万頭以上が家畜化されているが、野生のヤクは1万頭ほどしか残っていない。
松潘は一泊だけの予定だったが、すれ違う人の顔や服装、街並みに異国情緒が漂い面白そうなので、追加で一泊することにして町を歩いた。
四川省のアバチベット族チャン族自治州にある松潘は、紀元前から王朝と辺境の地を結ぶ交易の町として存在し、唐の時代(618年 – 907年)には、チベット族、チャン族、回族、漢民族などによって栄えた。
中国古代民族の末裔とされるチャン族は、岷江上流域の渓谷に30万人ほどが住んでいる。
チャン族は、聖霊や多神崇拝のアニミズムでチャン語を話す少数民族だが、今の若者は漢化が進み中国語を話すらしい。
松潘はチベット語が話される広大なエリア東の端にある。チベット自治区のラサと比べると、チベット的な雰囲気はあまり感じない。
明の時代(1368年 – 1644年)になると「松州古城」と呼ばれる全長6.2km、高さが12.5mの城壁が築かれた。修復された城壁は上に登って見学することができる。この規模だとそう簡単には侵入できなかったはずだ。四川の山奥で交易の街として重要だったことを窺わせる。コンパクトな城塞都市だが、今日まで続く歴史の長さや、異なる民族、宗教が共存してきたことを考えるとなかなかディープな町だ。
松潘の町を流れる岷江は、四川盆地まで流れて楽山市で大渡河と合流し長江となる。松潘の町は岷江の流れる渓谷に築かれている。町の西はずれにある屋根の付いた古い橋はかつての関所だったのだろうか。橋を渡った先には、観音閣という7階建ての岩壁寺院があり、その寺院からは山の上へと道が続いていた。
山の高台には小さな村があった。民家の周りには畑があって女性たちが農作業をしていた。軒先では鶏を育てている。
村の男たちは馬に乗って移動していた。松潘では古くから馬が重要な交易品だったそうだ。集落の寺院の前でたむろしていた人に「你好(ニイハオ)、我是日本人(ウォーシーリーベンレン)」と話すと、ビートたけしのコマネチのポーズをする中年の男性がいた。
山頂には砦のような物が建っている。
高台から松潘の町を見渡すことができた。景色も風も良かったのでしばらく腰を下ろして眺めた。
ここで食べたヤク肉のジャーキーにあたったのかどうかはわからないが、このあと成都に戻ってから人民病院で2日間点滴をすることになった。
崖沿いに建てられた観音閣。近年再建された寺院らしい。中国を旅しながら、歴史を後世に残そうとする中国政府の政策を感じる。松潘も今後さらに観光地化されていく感じは否めない。
宿や土産物屋のあるエリアと反対側の城壁は修復されておらず歴史を感じさせる。九寨溝や黄龍に行く機会があったら、民族と宗教、古い時代と現代が入り混じった松潘に是非立ち寄ってみてほしい。