チベットの聖地ラサ、ジョカン寺とポタラ宮
ユーラシア大陸中央部に広がる世界最大の高原、チベット高原の南部、標高3,650mにあるラサ(ལྷ་ས、拉薩)は、7世紀から続くチベットの古都。チベット仏教の中心地で、17世紀に建てられたダライ・ラマ14世の居城、ポタラ宮の姿がよく知られている。
ラサで宿泊した吉日旅館(Kirey Hotel)は、ダブルが一部屋60元(約900円)の安宿。近くで焚かれた香草の香りと街の雑踏が部屋に届くいい雰囲気の部屋だった。
この宿はチベットを個人で旅するバックパッカーが利用するので、遠方へ移動する仲間を募りやすい。チベット各地への移動は制限されているが、パーミットの手配などは宿で手配することができた。
チベット到着の翌日、ポタラ宮の入場整理券を手に入れるため、ポタラ宮の西門まで歩いた。8月のラサは乾季に入る前だったが空気は非常に乾燥していた。富士山ほどの海抜なので空気が薄く、通りを少し歩くだけで息切れする。
二日前に同じ宿に着いた日本人の大学生が高山病で泡を吹いて倒れてしまい、病院に搬送されたと聞いたので少しビビっていた。携帯用の酸素ボンベ缶が売っていたので買っておいた。
ポタラ宮の前で、たくさんの人が全身を使った「五体投地」で祈りを捧げていた。
7世紀始めにチベットを統一したソンツェン・ガンポ王の息子が、当時仏教国だった唐(中国)とネパールからそれぞれ妃を迎えたことでチベットに仏教が伝来する。761年に仏教が国教とされ、それまでチベットで広まっていたボン教と共にこの地に浸透した。
モンゴルまでチベット仏教が伝わった13世紀以降は、軍事国家から僧院国家へと変わり、それは政教一致のダライ・ラマ政権につながる。中国最後の王朝となる清と共にチベット仏教圏は拡大していった。
清の滅亡後、チベットは独立を求めていたが、1949年に成立した中華人民共和国はチベット領有を宣言した。しかし、宗教抑圧を恐れたチベット政府がそれに応じなかったため、中国共産党はその翌年チベットに軍隊を送り軍事力を行使した侵略を始めた。虐殺や処刑、強制収容所での死亡、餓死など、1980年以前までに100万人以上のチベット人(チベタン)の命が失われたとされている。
世界が混乱していた時代にチベットで起きていた問題は、日本ではあまり伝えられていない歴史だ。高校生の時に映画『セブン・イヤーズ・イン・チベット』を観なければチベットに興味をついて知らずに過ごしていたと思う。インドに亡命中のダライ・ラマ14世の自伝を読み終えたばかりということもあり、宗教を抑圧されただけでなく、鬼畜のようなやり方で多くの同胞を殺害されたチベタンの過去が不憫でならなかった。
ラサでは、手に持ったマニ車(マ二コル)をぐるぐる回転させたり、数珠を爪操りながら歩いている人の姿を目にする。マニ車は、円筒部分に経典が納められており、これを回転させればお経を読んでいることになるという、チベット仏教の便利アイテム。
ラサの旧市街バルコル(八角街)の中心部は、たくさん屋台や土産物屋で賑やかだった。リーベンレン(日本人)のバックパッカーに対してはあまり商売っ気がない。
チベット族は、アクセサリーなど身につけるものを大事にするらしい。特に緑色のトルコ石(ターコイズ)が古くから珍重されているそうだ。赤色のコーラルを使ったシルバー製品も多い。どちらもシルクロードを通じて交易品として運ばれたもの。
屋台の店主に「タシデレ」(こんにちは)と声をかけ、電卓を叩きながら身振り手振りで値段交渉してターコイズのシンプルな首飾りを買った。チベット語でありがとうは「トゥジェチェ」。
バルコルは、ラサの中心にある寺院ジョカン(大昭寺)の周囲をぐるりと囲んでいる。巡礼者向けでもあり、数少ない観光客向けでもある。
チベット仏教では、寺院や仏塔などを右回り(時計回り)歩くコルラという巡礼を行うが、ここバルコルでも人々は右回りに歩いてジョカンをコルラしていた。
若いチベタンの僧。ドラゴンボールの天下一武道会に出てきそうな出立ちで、めちゃくちゃカッコいい。
ジョカン(チベット語でトゥルナン)は、チベット仏教徒にとって最も聖なる寺院。チベット各地からラサに来る巡礼者は、このジョカンに詣でることを目的としている。
ジョカン周辺では、巨大な香炉でサンという香草が焚かれ、独特な匂いが漂う。
ジョカンの前で巡礼者が五体投地をする。この寺院は、ソンツェン・ガンポ王の死後、ネパール人妻のティツンが王を弔うために建てたとされていて、王妃の故郷ネパールの方角を向いている。
70元を支払って入ったジョカン境内。大きなマニコルの回廊が建物を囲う。
ジョカン内部はたくさんのバターロウソクが灯され、むせかえるような匂いが充満していた。巡礼者たちはヤク乳のバターオイルを注いで火を絶やさないようにしている。
巡礼者たちは、国宝級の仏像に囲まれた薄暗い回廊を、マントラを唱えながら密になって進む。中心部にある釈迦牟尼像の前では、巡礼者が一心不乱に祈りを捧げていた。
ジョカン中央部の吹き抜けになった場所は、チベット各地から集まった巡礼者たちが座布団を敷いて体を休めていた。
ジョカンの屋上に登ると、暗く密な内部とは一転、眩しく開放的だった。
屋上にはちょっとした売店もあり、ご利益のありそうなチベット仏教グッズをいくつか購入した。後から知ったがジョカン屋上の店はボラないらしい。何か行事があるのか、たくさんの僧が集まっていて賑やかだった。
ジョカンの屋上からは、ジョカン広場や遠くにポタラ宮を見ることが出来た。1987年9月と10月、中国の建国記念日にこの場所でチベットの自由を求めたデモ隊が中国の武装警察によって命を落とし、多数が検挙されて強制収容所送りになっている。
夕方16時、入場整理券の時間に合わせてポタラ宮に移動した。ラサの西、標高3700mのマルポ・リという丘に建てられたポタラ宮は「偉大な5世」と称されるダライ・ラマ5世が17世紀に建てた巨大な宮殿で、歴代ダライ・ラマの住居であり、チベットの政治と宗教の中心だった。ダライ・ラマ14世の亡命後は中国によって博物館化され現在に至る。「ラサのポタラ宮の歴史的遺跡群」として世界遺産に登録されている。
ポタラ宮は、高さ117m、幅400mという世界最大規模の建築物。下まで来るとその大きさに圧倒される。空気の薄い中、長い階段を登って入り口まで進んだ。
ポタラ宮の中に入る前に、2度のパスポートのチェックと金属探知機、手荷物のX線検査があった。ポタラ宮には2000以上の部屋があるとされているが、実際に見て回ることができるのはその一部。建物の内部は、写真撮影が禁止されていて監視員が立っていた。
ポタラ宮の白宮では、ダライ・ラマ14世の寝室、居間、瞑想室などが公開されていた。インド亡命した法王のプライベートな空間まで公開してしまっていいのだろうかという疑問も湧くが、興味深かった。その後、4層建ての紅宮を上層から順に見て回る。紅宮には歴代ダライ・ラマのミイラを収めた巨大な霊廟、無数の仏像、お堂などがある。ダライ・ラマ5世の霊塔(仏舎利)は、高さ17.4m、黄金3,700kgを使ったとされる巨大なもので「偉大な5世」と呼ばれるその権力をサイズが物語っていた。
ポタラ宮の前の大通り、北京中路に建つ白塔からの一枚。ここから眺めるポタラ宮の姿が、中国人民元の50元札の絵柄に使われている。一番大きい100元札の絵柄が天安門広場にある中国の国会議事堂(人民大会堂)で、二番目に大きい紙幣に侵攻し併合したチベットのポタラ宮。以前はポタラ宮の下にもたくさんの建物が建ち並んでいたが、中国によって全て撤去されたそうだ。ダライ・ラマ14世は、ポタラ宮を中心ではなく背景になってしまったと言っている。
白塔の台座から撮影した北京中路。曼荼羅の下で野良犬が昼寝し、日傘の女性が大通りの中心を歩いていた。ラサ中心の通りは他に北京東路、北京西路と言った具合に「北京」と名付けられている。
チベット自治区では、ダライ・ラマ14世の写真を持っていると逮捕されると聞いていたが、本当にどこにもダライ・ラマ14世の写真が掲げられておらず、代わりに、第2の地位にある共産寄りのパンチェン・ラマ10世の写真をよく目にした。ジャケの写真が14世の『ダライ・ラマ自伝(文春文庫)』がバックパックに入っていたので移動時は少し心配だった。